竹林寺の由来
高市郡明日香村栗原竹林寺

 栗原の集落には、飛鳥時代に建立された寺があった。栗原寺である。後には竹林寺と呼ばれた。竹林寺の別当某が作成した保延5年(1139)11月17日付け譲状案には、阿知使主の子孫である坂上駒子が崇峻4年に創建したと記してある。この時代、駒子といえば崇峻天皇を暗殺した東漢駒(やまとのあやのこま)が思い浮かぶ。おそらく寺の古さを喧伝するために後代に作られた伝承であろう。  

寺跡は明確ではないが、現竹林寺の東北方の俗称「光徳寺跡」付近とみられ、白鳳期の古瓦や礎石が出土したとのことである。村はずれの農家でその場所を聞いて訪れたが、寺跡らしい形跡は何も残っていない。丘陵を切り開いた平坦地に、ただ草花が生い茂る区画があるばかりである。
 
 

栗原の集落は、呉(くれ)の国(当時の南宋?)から連れてこられた渡来人が住み着いたのが、その始まりと考えられている。雄略天皇は倭の五王の一人で、当時の南朝政権・宋に遣使して上表文を奉ったことは有名だ。『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛した。いずれも朝鮮系の渡来人である。以下に示すように、二人は何回も呉の国に派遣されている。
 
 
  • 雄略8年2月、身狭村主青、檜隈民使博徳を呉の国に派遣。
  • 雄略10年9月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の国から鵞鳥(がちょう)を持って帰る。
  • 雄略12年4月、身狭村主青、檜隈民使博徳、再び呉の国へ使い。
  • 雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国。呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まる。呉人を檜隈野に住まわせた。それで呉原と名付けた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖である。
 
 栗原のほんの隣には、
 高松塚古墳
 キトラ古墳がある
 『日本書紀』の記載が何らかの事実を反映しているとするならば、栗原の集落あたりを居住地と定めたのは、後の漢衣縫部の祖となる衣縫の弟媛と思われる。現在、丘陵の傾斜地に集落を作ってひっそりと暮らす村人たちは、あるいは衣縫の弟媛を血を受け継いでいるかもしれない。  キトラ古墳阿部山から
 栗原で忘れてならないのは、僧・道昭である。道昭は渡来人・船史恵尺の子で、白雉4年(653)に学問僧として唐に留学し、玄奘三蔵を師として修行を積み、特に三蔵の勧めで禅を習った。帰国後は元興寺(飛鳥寺)の東南隅に別に禅院を立てて住み、多くの僧が彼に禅を学んだ。のちに、天下を周遊して井戸を掘ったり、港で船の桟橋を築いたりした。宇治川にかかる宇治橋は道昭が建立したものだという。文武天皇4年(700)、道昭が72歳で死ぬと、弟子たちは遺言によって栗原で荼毘にふした。これが我が国における火葬の最初である。道昭に続いて、天皇が火葬された。持統・文武両帝も火葬に付されている。  
 ※参照、日本では古来、土葬が主流だったが、仏教の伝来とともに貴族高官の間で火葬が     広まった。
  文献的には、『続日本紀』文武天皇四年(700年)三月の条に、
  「(道昭和尚を)火葬於栗原 天下火葬従此而始也」とあり、僧道昭が最初である。